代表のブログ

「アメリカンフットボール」

投稿日:2023年04月07日

私がこのブログを書いている一番の理由は〝営業〟なのですが、その他にも〝日記〟と、自分の過去を振り返る〝過去日記〟的な意味合いと
「将来 子供たちが読んで〝親父がどういう人だったか知ってほしい〟」
という想いも込められています。


私は中学の時、一応三年間野球部に在籍はしていたのですが、三年間で10回〜15回くらいしか練習に参加していないので、実質的に帰宅部でした。
(卒業アルバムには 一丁前に野球部の部員として写っています😅)


高校に入学した時 特別部活に入る予定はなかったのですが、体が大きかった事もあり アメリカンフットボール部の先輩が毎日毎日教室に来て 熱心に勧誘を続けてくれたので、その先輩に根負けしたのと 何となくカッコよさそうだったので入部を決めました。

しかし いざ入部してみると〝超ウルトラ体育会系〟で、誠に理不尽なサラ(新入り)仕事も全開にあり、練習のキツさも想像を遥かに凌ぐもので、毎日毎日ボロ雑巾のようになって家に帰っていました。

1ヶ月も経たないうちに、あまりのキツさから 新入生の1/4くらいが次々と辞めていきましたが、私は ほとんど〝意地のみ〟で続けながらも 内心では毎日毎日辞めたいと思っていました。

他のスポーツもそうなのかもしれませんが、アメフトの練習は 辛いばかりで 1ミリも楽しくも面白くもありません。
しかし 試合になるとガラッとその趣が変わります。

さすが 合理主義のアメリカ人が考えたスポーツだけあって、戦略性の高さ、ゲームとしての完成度、見た目の華やかさに加えて
〝フルパワーで敵にブチ当たり 相手をスッ飛ばすと褒められる〟
というところが痛く気に入り、私にはピッタリのスポーツだと思いました。

しかしその一方で、夏休みも毎日練習で 大晦日と正月三が日くらいしか休みがなく、夏になるとほぼ毎日誰かが泡を吹いてブッ倒れ、グラウンドの中に救急車が入ってくるのは日常茶飯事でした。

当時は〝水は飲んではいけない〟のが当たり前でしたが、このままでは死ぬと思った私は〝顔を洗うフリをしながら水を飲む〟のが天才的に上手かったと思います😅

その後にとうとう、散々脅されていた〝地獄の夏合宿〟が始まり、炎天下の中 朝から晩までゲ⚪︎を吐きながら練習をして、疲れすぎて食欲もない夕食後は 先輩達の衣類の洗濯に追われ、口もきけないくらい疲れ果て 毎晩泥のように眠りました。

毎日毎日
「やってらんねーわ。もう家に帰ったろうかな?」
と思いながらも〝根性がない〟と思われるのが嫌な一心で、奴隷になったような 諦めにも近い気分で続けました。


夏合宿が終わった時の「やったー!」という解放感と、最も困難な事に打ち勝った充実感は、今でも忘れられませんし 今でも財産になっている事は確かです。
(他にも 人が経験した事のないような 地獄の経験を乗り越えて来ましたが、この時の経験が一番の自信になっています)


その後はガラリと景色が変わり、体力的にも精神的にも余裕ができ、元々アメフト自体は好きだったので
「少なくとも高校3年間はこのスポーツを続けよう」
と思えましたし、この時に初めて腹を括れました。

と同時に 余裕ができた事によって、海や彼女やバイクなどに興じている周りの高校生を、羨ましそうに眺めはじめた自分もいました。


秋になり、二つ上の先輩たちの代の最後の大会が始まりました。


何試合か勝ち上がったところで、クジ運悪く 当時関東で一番強かった駒場学園高校の「ファイティングゴリラーズ」と当たってしまったのですが、その数ヶ月前の練習試合でコテンパンにやられていたので、正直私は また惨敗を覚悟しました。


通常アメフトは、オフェンス(攻撃陣)とディフェンス(守備陣)が総入れ替えとなるので、通常は「11×2=22人」で戦う事になるのですが、当時ウチの高校は 22人もの〝一線級の選手〟がいなかったので、11人で両方を担って(リャンメン)いました。


当然2倍疲れるわけですが、ゴリラーズは余裕で 総入れ替え状態な上に、そもそもの〝自力〟や〝体格〟(本当にゴリラのような連中ばかりでした)も違うので、圧倒的に不利な状況でした。

ところが 鬼の形相で立ち向かった先輩たちは、ゴリラーズ相手にがっぷり四つの五分の試合を展開し、私はその時点でもう かなり感動していました。
ところが 熾烈を極めていた試合展開の中で、絶対に出ないと余裕をカマしていた 一年坊主の私が「タックル」として投入されました。

事前に何も知らされていなかったので、金魚の水槽の中に いきなりポツンと入れられたメダカのように浮いていましたが、開き直って死に物狂いでゴリラにタックルをし続けました。
〝無我夢中〟という言葉がありますが、この時ほど無我夢中だった事はないと思います。

結果的に「7-21」くらいのスコアで負けてしまったのですが(これはアメフトのスコアとしては〝僅差〟と言えます)試合終了後 普段はオッカネー先輩たちが オイオイ泣いているのを見て、私もオイオイ泣いてしまい
「本当にアメフトをやっててよかった。
これからもずっとアメフトを続けよう」
と心に誓ったのをよく覚えています。


鬼の三年生が引退し 練習も環境も更に楽になり、一年生で唯一 ゴリラーズ戦に出場したは私は、少々天狗になっていました。
(二年生は それほど怖くはなかったので)

当時ウチの高校は、東京では「朝鮮高校」と「国士舘高校」に並ぶ〝武闘派〟と言われていたのですが(とは言っても 偏差値は61はありました)実はその中でも一番の武闘派が アメフト部の顧問の先生でした。
(朝高や士舘と互角に渡り合った歴代の番長が 軒並みシメられています)

ちょっと悪さをするとすぐに その先生の〝マイバリカン〟で丸坊主にされるのですが、結構な悪さをすると 眉間にシワが寄って目が吊り上がったのを合図に軍手をはめ始め、その次に 大山倍達のようなデカい拳が顔面に飛んで来ます。

私はそれまでにも2回丸坊主にされていたのですが、丸坊主が死ぬほど嫌いな私は、ある時 連帯責任的なとてもつまらない事で〝丸坊主令〟が出たので 拒否をしました。

すると
「いついつまでに来ないと、アメフト部をクビにする」
と言われ、調子に乗っていた私は
「俺をクビにしていいのか?
クビにできるもならしてみろ」
とばかりに無視をしていたら、本当にクビになってしまいました💧

クビを通告されてからすぐに丸坊主にして、詫びを入れに行けば許してくれたと思いますが
「クビ」=「他の高校生のように自由に遊べる」
という嬉しさが勝ってしまい〝理不尽な丸坊主〟への反発心とも相まって、とてもそういう気持ちにはなれませんでした。

 

その後 糸の切れた凧のように遊びまくった事は想像に難しくないと思いますが、その4年後に(私が20歳の時)ウチの高校が全国優勝した事を知り ジワ〜っと後悔の念が募り、更にその3年後に また全国優勝をしたと聞いた時は、決定的に後悔をしました。

アメフト部に入部した時に、自腹で買った〝防具一式〟は
「いかなる理由があろうとも、退部時は部に寄付する」
という誓約書を書かされます。
退部させられた時は
「どーぞどーぞ」
でしたが、今となってはそれも 惜しい事をしたと思っています。
(因みに 高校生当時に着ていた学生服も、あまりにも〝他の人と違う形〟だったため、没収されてしまいました💧)

今の人生も悪くはないのですが、あの時アメフトを辞めていなかったら、全く違う人生になっていた事と思います。
これは 後輩が全国制覇を成し遂げた事とは関係なく、私が人生の中で 最も後悔をしている二つの事の中の一つとなります。


実は、二名いる弊社顧問弁護士の中の一人の「柳田康男先生」は この時のアメフト部の同級生で、ゴリラーズ戦で悔し泣きをされていた二つ上の先輩方の中で 最も尊敬していた先輩とは、現在もFacebookで繋がらせていただいております。


非常に中途半端な形になってしまったので、大きな声で
「アメリカンフットボールをやっていた」
とは言えませんが、このお二方のおかげで
「短い期間ではあったけど、真剣にキチンとアメフトをやっていた」
「一番辛い時期には打ち勝ったし、決して辞めたくて辞めたわけではないし、逃げ出したわけでもない」
という気持ちが保てているという部分はあります。


顧問の先生が何故、あの試合に私を出したのか?
今考えると きっと
「お前には期待をしているんだからな。
ラインのリーダーを任せようと思っているんだから、生活態度の部分も もう少ししっかりしないといけないんだぞ。」
というメッセージだったのだと思われ、だからこそ 私には厳しく接していたのだと思います。

何度「あの時に戻る事ができたら…」と思ったか分かりませんが、あそこで丸坊主にする〝私の覚悟〟を見たかったのだと思うので、私が先生の〝想い〟を裏切ってしまったという事になり、アメフトで最も大切な〝チームの輪〟を乱す存在になり得ると思って「切る決断」をしたのだと思います。

トモ先生、あの時は本当に申し訳ありませんでした。

途中で退部をした者として お葬式への参列は遠慮させていただきましたが、どうぞ安らかにお眠り下さい🙏

 

 

 

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