代表のブログ
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投稿日:2018年05月28日
私は日大の付属高校でアメリカンフットボールをやっていました。
当時、日大といえば常に日本一を争う超強豪校で、フットボールをやっている人間の憧れの的でありスーパースター軍団でした。
当時の日大の最大のライバルであったが、今問題になっている関西学院大学です。 東日本の優勝校と西日本の優勝校で大学日本一を決めるのが「甲子園ボウル」で、毎年のようにこの二校で争われていました。 その勝者が、社会人ナンバーワンと本当の日本一を争うのが「ライス(日本の象徴のお米)ボウル」です。
その付属高でアメフトをやっていたわけですから、当然私もそこを目指して頑張っていました。 日大の「フェニックス(不死鳥)」に対して、我が校は鶴ヶ丘の校名から「シルバークレーンズ(銀色の鶴)」です(汗)
日大フェニックスといえば、大きなリスクを伴う超攻撃的システム「ショットガンフォーメーション」が代名詞で、それはそれは格好よく憧れたものです。
余談ですが、お笑い芸人の「オードリー」の二人は、姉妹校の日大桜丘高校のアメフト部出身で、春日君の持ちネタ「トゥース!!」はアメフト用語で「ハドル」と言い、その意味は「集合!!(または作戦会議そのもの)」なのです。 1プレーごとに全てのメンバーに作戦を伝える必要があるアメフトの試合では、このハドルが1試合で100回近く飛び交うのです(笑)
実は入学当初アメフトをやる気はサラサラなく、どうしようか悩んでいると、一個上の先輩が毎日毎日私のところに通ってくれて熱心に入部を誘ってくれたので「何だか格好いいし、女にモテそうだな」というヨコシマな気持ちもあり入部を決意しました(汗)
御多分に洩れず私の高校のアメフト部も超体育会系で、練習もシキタリも上下関係も厳しく、1ヶ月もしないで一年生部員が三分の一ほど辞めていきました。 ゴツい高校一年生が泣きながら辞めていったり、夏場などグラウンドの中まで救急車が入って来る事などザラでしたが、私はアメフトが大好きでしたし意地みたいなものもあって絶対に辞めないつもりでした。
先輩方から「お前ら、こんなもんで根を上げてちゃしょうがないぞ。夏の合宿は本当に地獄だからな」と散々聞かされていましたが、その合宿は本当にこの世の地獄であり、あの1週間を乗り越えた事は私の人生の一番の自信にもなっています。
一年生の秋、二個上の三年生の最後の大会で何試合か勝ち進み、当時関東で一番強かった駒場学園高校「ファイティングゴリラーズ」と当たりました。 本当にゴリラみたいな連中が、ゾロゾロゾロゾロ100人近く歩いてくるだけで物凄い威圧感です。
この試合に私も少し出してもらったのですが、人一倍気の強い私も正直ビビりまくりました。
アメフトは物凄く体力を消耗するので、通常オフェンス時とデフェンス時は選手が総入れ替えになるのですが、我が校は人数が少なく「リャンメン」と言ってそのまま両方出続けざるを得ない状態でした。 単純に相手より倍以上消耗する事になるのですが、その状態でその関東一のゴリラ軍団を相手に野球で言うと3対1の試合をして負けました。
愛称的にも「銀の鶴」に「戦うゴリラ」ですから完全に名前負けですが、実質的にも猫が虎に挑むようなものでした。 しかし、先輩達は本気で勝ちにいきました。 感動ものの善戦をしましたが破れ、おっかなかった先輩達のワンワン泣いている姿を見て私もピーピー泣いてしまい、その瞬間「本物の青春」を感じて本当にアメフトをやっててよかったと心の底から思いました。
地獄の一年坊主の夏合宿も乗り越え、10月には三年生が引退し、いよいよこれからは楽になるばかりでした。 ライン(最前線に居並ぶ「盾」のようなポジション)の中では一番上手い自信もあり、少し天狗になっていた私は、部特有のヘンテコリンな規則を少しだけ破りました。 厳しくて有名な顧問の先生から坊主にするよう言われましたが、それまでも何度か理不尽な事で坊主になっていたので、従わなかったところいきなりクビを宣告されました。
「そんなくだらない事で俺を辞めさせていいのか?」という驕った気持ちもありましたし、その事に対しては間違えた事をしていないと信じていた私は「あーそーかよ。分かったよ。」とばかりにトットと退部してしまいました。
その4年後と7年後、我が校のアメリカンフットボール部は二度の全国優勝を成し遂げました。 4年後という事は、私たちが三年生の時の一年生部員の代です。 という事は、私の代のチームメイトの連中が、全国制覇を成し遂げた子達に直接教えたのです。 もうその時は全くもって部外者なのですが、とても誇らしく思うのと同時にとても寂しい複雑な気持ちになりました。
今の自分の人生もなかなか気に入っているのですが、あの時つまらない意地を張ってアメフトを辞めていなければ、私の人生は大きく大きく変わっていた事でしょう。 これは、私の人生で一番後悔している事です。
実は当社の顧問弁護士の一人、柳田康男先生はこの時のチームメイトです。 一緒に地獄を乗り越えた戦友のように思っています。
今は亡き顧問の池田知先生、諸先輩方、仲間のみんな、短い間でしたが本当にお世話になりました。 中途半端な形になってしまいましたが、何物にも代え難いとてもいい経験をさせていただきました。
今回の日大の騒動の監督・コーチ、日本一のマンモス校である日大の対応、そしてあの時の私自身に共通して言える事は、一言で言えば「優位な立場にあるのをいい事に、調子に乗って起こした大失敗」という事になります。
今回、監督コーチの更迭は避けられないでしょうが、いつの日かきっとフェニックスの如く復活を果たしてくれると信じています。
私は日大の付属高校でアメリカンフットボールをやっていました。
当時、日大といえば常に日本一を争う超強豪校で、フットボールをやっている人間の憧れの的でありスーパースター軍団でした。
当時の日大の最大のライバルであったが、今問題になっている関西学院大学です。
東日本の優勝校と西日本の優勝校で大学日本一を決めるのが「甲子園ボウル」で、毎年のようにこの二校で争われていました。
その勝者が、社会人ナンバーワンと本当の日本一を争うのが「ライス(日本の象徴のお米)ボウル」です。
その付属高でアメフトをやっていたわけですから、当然私もそこを目指して頑張っていました。
日大の「フェニックス(不死鳥)」に対して、我が校は鶴ヶ丘の校名から「シルバークレーンズ(銀色の鶴)」です(汗)
日大フェニックスといえば、大きなリスクを伴う超攻撃的システム「ショットガンフォーメーション」が代名詞で、それはそれは格好よく憧れたものです。
余談ですが、お笑い芸人の「オードリー」の二人は、姉妹校の日大桜丘高校のアメフト部出身で、春日君の持ちネタ「トゥース!!」はアメフト用語で「ハドル」と言い、その意味は「集合!!(または作戦会議そのもの)」なのです。
1プレーごとに全てのメンバーに作戦を伝える必要があるアメフトの試合では、このハドルが1試合で100回近く飛び交うのです(笑)
実は入学当初アメフトをやる気はサラサラなく、どうしようか悩んでいると、一個上の先輩が毎日毎日私のところに通ってくれて熱心に入部を誘ってくれたので「何だか格好いいし、女にモテそうだな」というヨコシマな気持ちもあり入部を決意しました(汗)
御多分に洩れず私の高校のアメフト部も超体育会系で、練習もシキタリも上下関係も厳しく、1ヶ月もしないで一年生部員が三分の一ほど辞めていきました。
ゴツい高校一年生が泣きながら辞めていったり、夏場などグラウンドの中まで救急車が入って来る事などザラでしたが、私はアメフトが大好きでしたし意地みたいなものもあって絶対に辞めないつもりでした。
先輩方から「お前ら、こんなもんで根を上げてちゃしょうがないぞ。夏の合宿は本当に地獄だからな」と散々聞かされていましたが、その合宿は本当にこの世の地獄であり、あの1週間を乗り越えた事は私の人生の一番の自信にもなっています。
一年生の秋、二個上の三年生の最後の大会で何試合か勝ち進み、当時関東で一番強かった駒場学園高校「ファイティングゴリラーズ」と当たりました。
本当にゴリラみたいな連中が、ゾロゾロゾロゾロ100人近く歩いてくるだけで物凄い威圧感です。
この試合に私も少し出してもらったのですが、人一倍気の強い私も正直ビビりまくりました。
アメフトは物凄く体力を消耗するので、通常オフェンス時とデフェンス時は選手が総入れ替えになるのですが、我が校は人数が少なく「リャンメン」と言ってそのまま両方出続けざるを得ない状態でした。
単純に相手より倍以上消耗する事になるのですが、その状態でその関東一のゴリラ軍団を相手に野球で言うと3対1の試合をして負けました。
愛称的にも「銀の鶴」に「戦うゴリラ」ですから完全に名前負けですが、実質的にも猫が虎に挑むようなものでした。
しかし、先輩達は本気で勝ちにいきました。
感動ものの善戦をしましたが破れ、おっかなかった先輩達のワンワン泣いている姿を見て私もピーピー泣いてしまい、その瞬間「本物の青春」を感じて本当にアメフトをやっててよかったと心の底から思いました。
地獄の一年坊主の夏合宿も乗り越え、10月には三年生が引退し、いよいよこれからは楽になるばかりでした。
ライン(最前線に居並ぶ「盾」のようなポジション)の中では一番上手い自信もあり、少し天狗になっていた私は、部特有のヘンテコリンな規則を少しだけ破りました。
厳しくて有名な顧問の先生から坊主にするよう言われましたが、それまでも何度か理不尽な事で坊主になっていたので、従わなかったところいきなりクビを宣告されました。
「そんなくだらない事で俺を辞めさせていいのか?」という驕った気持ちもありましたし、その事に対しては間違えた事をしていないと信じていた私は「あーそーかよ。分かったよ。」とばかりにトットと退部してしまいました。
その4年後と7年後、我が校のアメリカンフットボール部は二度の全国優勝を成し遂げました。
4年後という事は、私たちが三年生の時の一年生部員の代です。
という事は、私の代のチームメイトの連中が、全国制覇を成し遂げた子達に直接教えたのです。
もうその時は全くもって部外者なのですが、とても誇らしく思うのと同時にとても寂しい複雑な気持ちになりました。
今の自分の人生もなかなか気に入っているのですが、あの時つまらない意地を張ってアメフトを辞めていなければ、私の人生は大きく大きく変わっていた事でしょう。
これは、私の人生で一番後悔している事です。
実は当社の顧問弁護士の一人、柳田康男先生はこの時のチームメイトです。
一緒に地獄を乗り越えた戦友のように思っています。
今は亡き顧問の池田知先生、諸先輩方、仲間のみんな、短い間でしたが本当にお世話になりました。
中途半端な形になってしまいましたが、何物にも代え難いとてもいい経験をさせていただきました。
今回の日大の騒動の監督・コーチ、日本一のマンモス校である日大の対応、そしてあの時の私自身に共通して言える事は、一言で言えば「優位な立場にあるのをいい事に、調子に乗って起こした大失敗」という事になります。
今回、監督コーチの更迭は避けられないでしょうが、いつの日かきっとフェニックスの如く復活を果たしてくれると信じています。