ストーカーについて

長崎ストーカー殺人事件(長崎女性2人殺害事件)

概要

2011年(平成23年)12月16日に長崎で発生したストーカー殺人事件で、元交際相手本人ではなく、そのの母と祖母が殺害された凄惨な事件です。

長崎県西海市の山下誠さん(58)方で、午後9時前に帰宅した誠さんの次男(18)が、家に明かりがなく居間の窓ガラスが割られているのを見つけ、三女と東京にいた誠さんに電話で伝える。
誠さんが西海署に通報するとともに、次男は近所の親類と一緒に2人を探したところ、敷地内のワゴン車の荷台から妻の美都子さん(当時56歳)と母の久江さん(同77歳)が刺殺されていた。
久江さんの胸や腹を包丁で数回刺して殺害し、更に母屋の窓ガラスを割って入り、美都子さんを包丁で十数回刺して殺害した。
特に、美都子さんの遺体には背中にも刺し傷があり、複数の部屋に血痕が残っていたことから、筒井が強い殺意を持ち、逃げまどう美 都子さんを執拗(しつよう)に追いかけて犯行に及んだとみている。
死因はいずれも失血死だった。

翌17日、長崎県警は三重県桑名市の無職・筒井郷太(27歳)を殺人、住居侵入の容疑で逮捕した。
筒井は、美都子さんの三女(23)の元交際相手で交際を巡るトラブルから2人を殺害した。

筒井は事件前、千葉県に住む三女に暴力を振るったり、ストーカー行為を繰り返したりし、千葉県警から3回にわたって警告を受けていた。
事件は最後の警告から1週間後に起きた。

さらに、ストーカー被害の相談を受けていた千葉県警が被害届を受理せずに慰安旅行に行っていた事実が発覚したことで、平成11年に発生した「桶川ストーカー殺人事件」を彷彿させる警察への不信感が社会問題となった事件。
また、当時の「ストーカー規制法」では、つきまとい等に対する警告や命令は被害者の居住地の警察のみに限定されていたことから、居住する千葉県から実家のある九州に逃げていた被害者が、届けのために何度も千葉まで出向かざるを得なかったことなども”被害を食い止められなかった要因”の一つとして問題となり、平成25年6月の「ストーカー規制法改正」のきっかけとなった事件です。

 

経緯

平成23年2月下旬、三女と筒井郷太容疑者(27)はネットを通じて知り合い交際を始める。
当時無職であった筒井は三女が一人暮らしをしていた千葉県の 家に居座り日常的に暴力を繰り返していた。
三女は千葉県内のスーパーに勤めていたが、帰宅時間が少し遅れただけでも 筒井から暴力を受け身体中がアザだらけになり、頭から血が出るくらい叩かれ、熱が出ても病院へ行かせてもらえなかったほどだった。
その後、事実上の監禁状態となる。

2011年10月29日に三女の父・誠さんが長崎・千葉の両県警に相談、翌30日には三女の部屋に三女の親族、同僚と習志野署員2人が突入して三女を保護。
誠さんが自宅に三女を連れて帰ることとなる。
署員は筒井容疑者を任意同行し「二度と近づかない」との誓約書を書かせ、警告を出す。
しかし筒井は、三女から引き離された事を機に、ストーカー行為を行い、三女や三女の知人に 「居場所を教えなければ殺す」「家族を殺す」等の脅迫メールを翌31日には送っていた。

11月に入り三女は長崎県警西海署に傷害の被害届けを出したいと相談するが、事件の起こった警察署にするように言われたため千葉県警習志野署に電話で相談。

11月中旬には筒井が三女の知人などに「三女の連絡先を教えなかれば周囲の人を殺して取り戻す」といった脅迫メールを送ったことから、西海署と習志野署に相談するがいずれも「被害者の所在地の警察署に相談をするように」と回答。

12月6日に三女と誠さんが習志野警察署を訪れるが、電話ではいつでもいいと言っていたにもかかわらず、刑事課が一人も空いていないので1週間待つように回答(これがのちに大問題となる

また、当時筒井は三重の実家にいたため、三重県警桑名署に脅迫メールを伝え筒井の実家巡回を求めるが、同署は「西海、習志野署に確認する」と回答したのみで以後連絡ない。

12月に入り三女が習志野署に被害届を出したいと電話相談。

千葉県警は12月9日に筒井を再度出頭させ警告を行い、筒井は「自分からは連絡を取らない」と応じ、実家のある三重県に 帰った。

その後、12月12日に三女は、9月と10月に自宅や千葉県習志野市内の路上で顔を殴られるなど怪我を受けたとして、千葉県警習志野署に傷害の被害届を提出している。

千葉県警は同日付で被害届を受理し、12月14日に捜査を開始したが、同日筒井は自宅で父親の顔面を殴り行方不明となった。

筒井の父親はその後、東京都内で三女の父親とと面会。 「息子が自分の顔を殴り、金を持って姿を消した。気を付けてほしい」と伝えていた。

12月16日犯行に及ぶ。

 

犯行後

2011年12月17日、長崎県警は筒井を長崎市内のホテルで見つけ任意同行を求め、殺人、住居侵入で逮捕。

逮捕当時、筒井は被害女性の財布2つと 包丁2本所持しており、この包丁からは死亡した2人の血液が検出された。また、筒井の着ていた衣服にも被害女性の血痕が付いていた。
さらに、5月21日には殺害された山下美都子さん(当時56歳)の三女(23)に暴力を振るい、負傷させた疑いも強まったとして傷害容疑、6月1日には三女の姉ら8人に脅迫メールを送った脅迫罪でそれぞれ追起訴された。

逮捕直後、筒井は「弁解することはない」としていたが、12年1~4月の鑑定留置で「人格障害」と診断され、長崎地検に刑事責任能力があると起訴されてからは容疑を否認。
「長崎には行ったが女性宅には行っていない」「他に犯人がいる」「検察、警察がでっち上げたストーリー」等と主張した120枚に及ぶ手紙をマスコミに送付している。

事件発生前の2011年12月6日、三女の父親は習志野署に三女の暴行事件について相談したが、その際、刑事課は別事件の対応に忙しい事を理由に被害届の提出を1週間待つようにと伝えられた。しかし、その2日後の 12月8日から事件を担当する生活安全課の課長や刑事課の担当者を含む10人余りが、署内のレクリエーションで北海道の函館市に2泊3日の旅行に行っていた。

結果的に、12月12日に被害届の提出、受理となり、事件を防ぐ事が出来なかった。相談を受けた12月6日に被害届を受理していれば事件を防ぐことができた可能性もある。

 

判決

平成25年6月14日長崎地裁で開かれました。
第4回公判では三女が証人尋問で出廷し、「死刑でも足りない。家族を殺すと言われていたので、死ぬことも逃げることもできなかった」と涙ながらに訴えた。
また、同居を始めるとすぐに暴力を振るわれるようになり「鉄アレイやコップで殴るなどひどかった」といった状況や、「雑貨売り場で男性客を接客する時は、携帯電話を通話状態のままにさせられていた」などと職場にいるときでさえも拘束されていたことなどを明かした。
被告は裁判で「警察官に自白を強要された」とし、無罪を主張していましたが、重富裁判長は「自白は具体的かつ詳細で信用できる。公判での供述は信用できない」として、2人の殺害を被告の犯行と認定し「何の落ち度もない2人の命を理不尽に奪い、結果は重大」として求刑通り死刑を言い渡した。
被告側は判決を不服とし控訴したが、後に最高裁で死刑が確定した。

 

警察の失態

12月6日に三女と誠さんが習志野警察署を訪れるが、電話ではいつでもいいと言っていたにもかかわらず、刑事課が一人も空いていないので1週間待つように回答。
これがこの事件で後に大きな波紋を投げかけた。
なんと、「被害届の提出は一週間待ってほしい」と伝えたあとの、12月8日から10日まで、ストーカー事件の責任者だった生活安全課の課長や、父親に「被害届の提出を待ってほしい」と伝えた刑事課の係長など12人が、北海道に慰安旅行に行っていた事が後に発覚。
しかも、この旅行期間中の9日未明に三女宅もチャイムを鳴らしたりベランダを叩く音がしたことから習志野署に通報するが、「顔は確認したのか?」「逮捕はできない」として帰ってしまったほか、この後、三女宅前をうろつく筒井に職務質問するが、捜査を先送りにして事情聴取も済んでいなかったことから逮捕は難しいとして、両親に連れて帰るように指示をするにとどまっている。
後に県警は慰安旅行に行った担当者が事件の切迫性を認識して対応していればより踏み込んだ対応ができた筈だったと、旅行が捜査に与えた影響を認めて記者会見で謝罪。

事件の舞台が千葉、長崎、三重と三つの県をまたいだため、各県警の責任のなすり合い、押し付け合いが見られ、各県警がもっとキチンと連携、協力していれば防げたはずの事件だと大きく取り上げられました。

ストーカー規制法が施行されたことによって、警察が積極的にストーカー事案に対して介入できるような法整備がなされてもなお、警察の体質が変わることなく、凄惨なストーカー事件を食い止めることができなかった衝撃的な事件として知られています。

ストーカーについての一覧に戻る
ページ先頭へ戻る